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 朝8時。慌ただしく目を覚ます街の片隅で、ひっそりと催される儀式のようにそれは行われた (※)。『壁あるいは石、平たいメディウム』は、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科に在籍中の吉田萌による初演出作品である。そしてそれは〈身体のメディウム化〉を構想する極めて独創的な舞台だった。

 本作が上演されたのは武蔵野美術大学正門すぐそばにあるアトリエスペースhira-kodaira。 専用の舞台があるわけではなく、作業用・展示用の空間だと思われるホワイトスペースに、透ける薄い布地をまとい、黒いキャミソールを着衣した人間(宮城茉帆)が横たわっている。

 客席は6席限定。とはいえ自由に座席を選択できるわけではない。受付で提示される「い し」「アレカヤシ」「とうきのかたまり」「もくせいのきゃたつ」「hi-lite」「つるつるのやきゅうボール」と記されたカードが「座席番号」の代わりとなり、その中から選んだ一枚と対応する座席に案内される(「いし」の座席には実際に「いし」が置かれている)。しかも6席だけの客席はキャンプイスから脚立まで高低差がつけられ、アトリエの外にまで席が設けられている。

 それぞれの座席には、イヤホンに繋がれたパソコン、iPad、iPhoneのいずれかが置かれている。観客は配られた手元のパソコン/デバイスに流れるマッサージその他の映像と寝転がる宮城がゆっくりと動いていく時間を交互に見ることになる。さらにイヤホンからは、美術モデ ル、トレーニー、ダンサーの身体感覚にまつわるインタビューと散文を読み上げる音声が流れ、塞がれた耳の向こうからはアトリエ周辺の環境音まで侵入してくる。

 つまりここでは集団的な体験の共有ではなく、個的な経験の産出が目指されている。偶然に選び取られた座席、各所で異なる眺め、パソコン/デバイスによる視聴体験の相違、周辺環境の雑音、マッサージの映像に触発される肌感覚、そして視覚と聴覚に分裂した〈いま・ここ〉 の知覚といった複雑な経験のレイヤーが織り合わされ、各人でまったく異なる上演の時間を分岐させていく。 そこで、ある意味ではただ目の前をゆっくりと動いているだけの身体は、各人が意識的・無意識的に選択した諸要素との関係で意味づけられ、感覚される幽霊的な〈メ ディウム〉に変容するのである。

 

 



本当は人間じゃなくなりたいと思っている。もっと電柱くらい身長が伸びたり、めっちゃ 球体になりたいとか、石になりたいとか。[そういう]突飛な理想みたいなのはあるけれど、実際問題なれないじゃない電柱には。人間に生まれてきてしまったなら、自分の思う美しいアバターでありたいっていう想いから、この生まれ持った身体でどうできるか、すごい考えてる。

 

 

 

 

登下校の声が聞こえる。クーラーをつける気力もない汗ばんだ私の身体は、眠りとの境目 のないままただベッドの付属品みたい。笑い声、鳥の声、ゴミ収集車、換気扇、地面を滑るあらゆる音たち。

経験の破砕から白昼夢のエロスへ―『壁あるいは石、平たいメディウム』

 インタビューに答えるダンサーは、生物学的な形態に拘束された「身体」と想像的に生産される〈身体〉の“葛藤”についてアバターの比喩で語っている。アバターとは、自分の分身。この「身体」に潜在する自分自身の幽霊である。

 長い黒髪で顔を隠し、行為の意志を感じさせないまま白い空間を歪ませる“染み”のように彷徨する宮城の「身体」は、具体的な場所性を喪失した幽霊のように現象する。さらに確率的に割り当てられた眺め(座席)の再帰的な感覚、視覚と聴覚の“乖離”が生む擬似的な失神状態 ――イヤホンで塞がれた耳は空間の現実感を剥奪する――から生まれる白昼夢のような視界の中で、〈それ〉は観者の想像的な〈身体〉と戯れる〈分身〉――電柱、球体、石etc――として 立ち現れるのだ。

 現に目の前にある「身体」を、白昼夢の幽霊のように現象させる演出の操作は、本作のユニークな試みであると同時に、切実で原理的な問いをわたしたちに投げかける。

情報化社会、IT革命、Web2.0などなど様々な名称が与えられてきたデジタルメディア環境は、COVID-19で人と人の接触が制限されたこの時期、パソコンやスマートデバイスを通じた テレコミュニケーションの常態化を促した。その必然として他者とのコミュニケーションの確 からしさ(真正性)を担保していた身体の直接性が失調する。Zoomのオンラインミーティングで、上半身はスーツなのに下半身は部屋着のまま......というネタが一時期出回っていたが、 それもテレコミュニケーションでは、実際に知覚される身体が経験の真正性を保証しないことの戯画になっている。メディアに媒介されたコミュニケーションは、身体の現前性に統合されていた視覚情報・聴覚情報・触覚情報etcを異なる回路でバラバラに処理・操作可能なデジタル 記号に還元する。

 本作の想像力を成立させる土台として、COVID-19のもとで進行していたデジタルメディア環境の深化が横たわっていると指摘することは容易い。しかし、それはあくまでも上演の資源として扱われていることに注意したい。各人の身体的現前性に統合されていた視覚、聴覚、触覚 etcの情報処理回路をバラバラに分解し、再形成するプロセスを駆動させることで、本作はわたしたちの身体感覚、欲望、セクシュアリティ、そして生の意味を構成する経験の条件をラディカルに問い直しているのである。

 

 

体温、皮膚のぬめり、呼吸の音が近くで聞こえること、教室、明るく清潔なスーパー、すべての異物である悲しさをただ抱いて眠る、輪郭を持つならせめて壁、石、平たいなにか、透明で綺麗な存在。

垣根の身体のメディウム化。かたちは外側によって象られること。弛緩の状態をインス トールすることに成功しました。少しずつ良くなっていっていつか、平らな身体になる。限りなく平行でなめらかな表層を保ったまま、浮かぶ。包む手のひらにおさまって、あなたの身体になるときもある。

 読み上げられる散文は、なんらかの孤絶を抱えて横たわる身体を内的/外的な感覚の両方を 含みこんだ不可思議な視点から叙述していき、上記の箇所では、異物としての身体への違和とメディウム化した身体があなたの身体にもなりうることが語られる。

 こうした語りはよるべなき宮城の〈身体〉をパフォーマティブに意味づけなおしていくもの である。そしてなにより、周囲の状況やジェンダー化された視線、自身の経験との交渉から生まれるポーズのはたらきについて語る美術モデル、ジムで鍛えた筋肉を周囲の圧力に屈しないある種の鎧としてまとうトレーニーとの言葉のやり取りに体現されているように、インタビュアー(吉田)とインタビュイーのあいだに流れる言葉や感覚を受けて〈観者〉と〈宮城/身体〉のあいだで感応する諸感覚、つまりは複数の〈私〉と〈あなた〉のあいだに生起する不安定な親密さを通じて〈身体〉の想像的な形態をつくりかえていくエロティックな〈場〉を開くのだ。

 終盤、アトリエの外を走るいずこかのゴミ収集車から「乙女の祈り」が聞こえてくる。イヤホンの向こうから微かにひびく妙な音は、夢の成分を含んだエロティシズムを漂わせている。不意に訪れる白昼夢の媚態。それが〈あなた〉を欲望する〈身体〉の再形成に〈私〉を誘惑するのである。

※上演期間は2020年9月19日~24日。公演の時間は8:00と20:00に設定されている。筆者は8:00 の回を観劇した。


渋革まろん(批評家)
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