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###吉田萌 『壁あるいは石、平たいメディウム』へのコメント



 この身体はどうして言うことを聞かないのかと誰でも少しは考えたことがあると思う。大事なときに眠くてしょうがないとか、全く眠れないとか、身体的なコンプレックスを意識してぎこちなくなるとか、酔って吐き気が止まらないとか、バスケットボールのゴールにボールを投げ込めないとか、少し不安になっただけで下痢してしまうとか。
 この作品を鑑賞しているときに考えていたのは上記のような自分の記憶についてでもあったし、 そこから進んで「身体」の正体ってなんだろうか?ということでもあった。このパフォーマンス が「身体」を鑑賞すると同時に「身体」についてのインタビューを聴くという二つの行為によって 成り立っていたからだと思う。
 薄暗いギャラリーはコンクリート打ちっぱなしの建築途中の家のよう。脚立やベンチなどがガランとした空間に配置されていて、観客はバラバラに座っている。目の前には布のかたまりがあった。空いている席の前に置かれたパソコンのヘッドフォンを耳にかぶせると、パフォーマンスが 始まる。
 ヘッドフォンから聞こえてくるのは、女性ダンサーの話、美術モデルをしている女性の話、筋トレをしていた男性へのインタビューだ。パソコンの画面にも誰かをマッサージする動画も流れる。 全部「身体」についてのこと。かわるがわる断片が流れる。また、時々挿入される詩もあって、それも「身体」についてだ。
 よく観ていると目の前の布が動き出したので、それがダンサーであることがわかった。以後、観客は観ながら聴くことになる。
 この体験をどう説明したらいいだろうか。新鮮だった。外側から「観て」いるうちに段々内側を覗いているような気分になっていき、内側の声を「聴いて」いるうちに、外側の床や壁、建物の外にまで耳を澄ましていくようになった。この「観る」と「聴く」の行為が「身体」を媒介にして何度もクロスする。観ているのか聴いているのか、外なのか内なのか、今自分がどこに意識をフォーカスさせているのかわからなくなる。確かに「身体」を媒介にして出たり入ったりを繰り返していた。目の前にダンサーの身体はあるんだけど、そこだけに意識をフォーカスさせている わけではない。どこかダミーのようでもある。耳からの情報が目からの情報と引っ張り合いをし ている。その中間に誰のでもない「身体」が浮いているよう。
 「身体」の正体については、作品が進めば進むほど「部分」は明確になっていくのだけれど、 全体についてはどんどんわからなくなっていく。しかもそれが快感でもある。何かそれぞれ(目の前のダンサー、インタビュー中のダンサー、美術モデル、筋トレしていた男性、詩)の「身体」を越えていこうとする意志も見えてきて面白い。
 そうか。別に「身体」についての作品ではないのかもしれない。点滅したり、薄くなったり、 消滅したりする物体の一つでしかないのに、ひょんなことから「人間」として切り分けられてしまった物体たちの、それぞれの言語による現状レポート。
 パフォーマンスの影響として、共感とは違う転移があり、自分もその一人であると感じながら観ていた。そのギャラリーの空間の一部として半分コンクリートのように存在していたらいいのにと願っていた。そんな体感は初めてだったのでとても新鮮だった。



 

松井周(サンプル)
 
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