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吉田萌さんから『ヴァカンス』に対するコメントをいただけないでしょうかとお願いされたものの、簡潔で気の利いたコメントを渡すことができないのは、ただ単に僕が演劇を見に行く機会をほとんど持たない素人だからという理由だけではない気がします。 

通し稽古を何度も撮影したものの、そこで起きていることは「これこれこういうことが起きています」と言えるものがほとんどありませんでした。特に石田ミヲさんのひとり語りをきっかけに始まる、三人の演者が奇妙な動きと共にたくさんの言葉を投げかけあう場面は、今起きていることを把握するのが難しい時間でした。そして、そもそも演劇を観るってどういうことだっけ?という疑問まで浮かんできたのが、僕にとって『ヴァカンス』を撮影するという体験でした。  
 

石田ミヲさんがとある公園についてひとり語りを始めると、三人の演者は舞台全体を縦横無尽に歩き回り、時には走り回り、また時には這いつくばって微動だにしなくなります。例えば吉田萌さんが壁に頭から突っ込んだまま、誰もいないその先に言葉を投げると、舞台の反対側でたこ踊りのように全身をくねらせている久世直樹さんが言葉を返します。その言葉は、壁に頭から突っ込んでいる惨劇とも陽気なたこ踊りとも関係のない言葉です。そうなると今眼の前で起きていることを言葉を手掛かりに読み解くことは困難になります。かといって、彼らの動きは行き当たりばったりで目的も意味もなさそうです。さて、はなればなれになった言葉と動きのどちらを信用したらよいものか。僕は言葉も動きも信用ならないものになった荒野に放り出された気持ちでした。その時に浮かんだ疑問が、演劇を観るってどういうことだっけ?というものでした。  
 

演劇を観るとは、舞台の外側に座り、距離を取って眺めて輪郭を理解し、その概要を持ち帰るということでしょうか?という問いを、僕は『ヴァカンス』を撮影している間ずっと問われているようでした。そしてそれは、演劇を映像で記録するとは?という問いに直結していきました。演劇を映像で記録するとは、舞台の外側にカメラを置き、距離を取って撮影したその輪郭が、記録と呼ばれるということでしょうか?  

その方法では『ヴァカンス』を捉えきれないように感じていた僕は、石田ミヲさんのひとり語りをきっかけに、カメラを三脚から外して舞台に上がり、演者の間に入り込んで撮影を始めました。先にも書いたように、本来一致するはずの言葉と動きがはなればなれになった舞台に足を踏み入れると、そこは言葉と動きがひとつになろうとする力と、それを引き剥がそうとする力との壮絶な綱引きが行われている磁場の真っ只中でした。カメラを持った僕が演者と演者の間に割って入る時、彼らをつなぐ目に見えない鋭利な糸に触れてしまうことは恐ろしいことでした。迂闊にもその綱引きの渦中に身を投じてしまった僕にできることは、三人の演者が生み出そうとしているものを、ただひたすらカメラを通して見つめることだけでした。そして見つめ続けることで、その生まれつつあるものを捕獲するのではなく、自分もその一部になることを願いました。 
 

私たちは今まさに生まれつつあるものに、名前をつけることができるでしょうか。名前をつけた途端にその生まれつつあるものは動きを止め、固定された過去になってしまうのではないでしょうか。  

ここにあるのは、僕が『ヴァカンス』をカメラを通して見つめ続けた、そのまなざしの痕跡です。だからそれは演劇の記録と呼ぶには不格好かもしれません。僕が見つめ続けたのは、あの日あの場所だけに生まれた、今ここという現在です。その現在を名づけることなく、息を止めて見つめ続けることが、演劇を観るということなのかもしれず、その名づけえぬ現在の積み重なりを、丸々受け止めて持ち帰ることが、演劇を観たということなのかもしれないと、噴き出す汗が体を伝う二〇二四年晩夏の撮影を通じて体感しました。


波田野州平(映像作家)
 
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